昭和45年03月09日 夜の御理解
私が午前中の奉仕をさせてもらって居る時に、大変珍しいお届けが有ったんですけれども。久留米から、美容師さん達夫婦が、お参りをして参りましてね。パ─マ屋さんです。言われるのに、「私があのパ─マ屋を初めて、美容師に成って此の方。こげな素晴らしい衣装を付ける花嫁はない。」と云う位いな豪華な衣装を付けて、花嫁を造るんだそうです。そりゃあもう本当に豪華絢爛と云うかまあ、見事だそうですね。
所がその娘さんのその器量がですね。もうちょっと器量が悪いそうです。どんなにこしらえて見ても、どんなにかつらを合わせて見ても、そのとにかくもうとにかく可笑しいっちゅう訳明けですね。ですからどうかおかげを頂いてまあ神様のおかげを頂いてから。私も花嫁を造るとして、又ご両親達にも喜んでね。折角じゃからもろうて勿論向こうでも少しでもカバ─が出来る様に、もう大変やっぱり苦心をしよると云う訳ですよね。けれども是れはどうにも出来ませんから。
神様になっとんお願いしてからと言うて、今日は夫婦で参って来たと云うパ─マ屋さんが有りました「お願い申しましょう。」と言うてから色々御理解を聞いて貰ったんですけれどもね。どんなに素晴らしい御教を頂いても肝心要のですね、こちらの心が汚かったり見苦しかったりしたら、丁度私は是れと同じ様な事じゃ無いだろうかと私は思う。私は昨日おとといの朝のご理解の、あのご理解のヒントと云うのは朝お夢を頂いたんです。あの「形の真似は出来ても心の真似が出来んから」と言うあのご理解の朝です。
是れは丁度、京都の舞子さんの様な舞子さんです。だらりの帯をした後ろから見たら、なんとも綺麗な、可愛らしい舞子さんじゃろうかと思って、夢の中でね思うて居りました。そしたらその舞子さんが少し、斜めにこう向かれましたらその顔が分かったんです。そしたらもうそれこそ顔を見たら「えっ。」と言おうごたる顔なんですよ。そしてあのご理解を頂いたんですよ。どんなに例えば「金光大神」ですね。
「金光大神」を読ましてもらうまたは、御教えを頂くと云うてもです。最近はあの「金光大神」を、もう何回読んだかと、もう何処へ行っても、問われます位ですね。「お宅の信者は、「金光大神」は持っとるか。」と。「持っとります。」と言うたらその合点をされると云う位いに、大事にされて居るのが「金光大神」ですはね。ですからもうあれを読ませて頂きますと。
確かに金光大神の生きられかた、又はそのあられ方物の見方思い方と云った様な物が、克明にそのご自分が書き残して居られる物の中から、それを感じ取る事が出来ます。教祖の神様と云う方は、こう云う方だったと。ですからそのそう云う、例えば生き方をなされたお方だから、私共もそう云う生き方に成らせてもらわんならんと言うて、その実意丁寧な生き方を、身に付けたら丁度、私はその後ろ姿は素晴らしき舞子さんだけれども、顔を見たら「えっ。」と、言うごたるとじゃろうと思うです。
きょうの花嫁さんのお届けじゃないけれどもですね。どんなに良い衣装を成る程「わら人形にも衣装から。」とこう言いますからね。「馬子にも衣装。」と言う様な事を申うしますけれども、なるほどカバ─は出来ましょう。けれども肝心要めの所を見られた時ですね、それこそ神さまが「えっ。」とちゅう言うごたる、思いをなさる様な事ではいけませんから、私共の心の器量のね。
見苦しさとか汚さと云うものを、本当に悟らせてもろうて本気でね。私は少しはましないわゆる本気で磨く。是れだけは何処の誰だって同じなんですからね。心例えば顔だけ良うならそれこそ整形手術とかまあ、綺麗に化粧をすると云う事くらいですけれども、心と云う物は自分がその気になりゃあ、どんなにでも綺麗に成るのですから、ね。その上に有り難いみ教えという、又は金光大神の生きられ方という生き方をですね、身に付けて行かなければいけない。
私は今こちらへ出る時に、今日はお風呂が遅う御座いましたから、少しいらいらもう時間が間にあわんとに、娘たちが入っとりましたからいらいらして、「早うあがらんかい。」とちゅうち、バタバタ入らせて頂いた。そして家内が私が奉仕着を付けるとの、用意をしてくれとる時に云っとりました。人間の心がいらいらしとる時はですね。もう本当に。まあ心にも無い事も云う事でもないですけれどもまあ、やっぱり心にもあるからそういう時出て来る訳ですけれども無い。
「勝彦はおまえに似とる。(笑)勝彦がろくそなかとこはお前に似とる。」とよ、ちゅうちから「はあそうでしょう。」途中から家内も。その「はぁそうでしょう。」が「ふうん。」ち、一様に言いますもん。ちゅうけんいろいろ。まあしかし奉仕着を付けさせて頂く間にですね。ほんなこて、勝彦じゃあなか、家内じゃあなか、こっち自身がろくそ無かと云う事が解らんのですね。
自分のろくそ無かとは、棚に上げて子供にしたり、家内にしたりしとると言った様なね。例えば本当にそう云う時の自分の心と云う様なものは、実に見苦しいです。ですからそう云う時にちらっ、ちらっと出て来るんですよ。腹の立ついらいらすると云う時に。でないと自分の心、本当の本性と云うものは出て来んのですよ。だからそげな所を私はぴしゃっと、とっちめにゃいかんと思うですね。
そして本気で成る程家内じゃない、子供じゃない、自分だと云う其処ん所に改まりの焦点がおかれる様な生き方をしなければですね。ただ教えをそれこそ浴びるように頂いても、綺麗にゃ成らんと言う事です。だからもういよいよの時にね。今朝のご理解じゃあ無いばってんかそれこそ金銭なら、金銭の事でも本当に汚い心で。付いて行こうごたるその金でも出さにゃん時には、言う様な汚い心ですね。
そう云う出さねばならん様な時出て来る訳です。人間の汚い心と云うもの。まあ汚い自分だなあとこう解らせてもろうて、そこん所をとっちめて行かにゃあいかんです。そこからね、私はその綺麗に成るとこう云う。綺麗に成って行けれると云う。いわゆる改まりに改まらなきゃ出来ん、いわゆる磨くに磨いて行かにゃいけんと云う事はね。そう云う時に、「はぁ自分の此処を改まらんならん。」と思わにゃいけん。
そしてその後の例えば、事情事柄に依ってです。それを砥石としてまた磨いて、美しゅう成って行く事の精進させてもろうて、教祖さまの生きられ方と云うものをです。身に付けて行かなければね。それこそ、久蔵さんでは無いですけれども、「形の真似は出来ても、心の真似が出来んから。」と云う、云うなら実意丁寧の化け物の様なものが、出来上がって来るんですよね。それではね。
いよいよその人の心に触れた時です。「えっ。」ちゅうごたる。どんなに京都の舞子さんが綺麗だと云うて、成る程後ろ姿はこたえんごたる、だらりの帯をして綺麗かけれども、ちょっと横向かせた時にその顔が「えっ。」ちゅうごたる顔じゃったら、いけんでしょうが。ですから本当に私はもうまず、教祖の神さまの心の真似から先にせにゃいかん。中々出来こっちゃない。
出来るこっちゃ無いけれども、何処をどう真似したら良いか解らんのです。実際云うたら。良う皆んなが言います「先生私の悪か所を言うて下さい。もう言うて下さい。」と云うてもうまるきり本当に言うてくれのごと言われるから、言うてあげようと思うけれどもね。言うと腹かきなさるほんな事を言うと。それけん「はあそこはね。いっちょ自分で解らにゃあ。お話頂いて自分で解らにゃあ。」と申します。本当ですよね。良く皆んな言うです「先生私は何処を、改まったらよ御座いまっしょうか。」と。
「何処ばげな。一言二言でばしあるの。」ち言うごたる気がするですよ。本当ですそれけんで、ほんなら自分でそれが解らんな御座るですから、本当に教えを頂いて教えの鏡を立てると云う事でも解んなさらんです。ですから今私が申します様に自分のいらいらしたりしとる時には、例えば家内に私が今晩いった様にです「おまえがろくそ無かけん、子供達がろくそ無か。おまえが改まらにゃあ出けん」ち言うてからばさらか。
家内が「本当に私が改まらにゃあ出来ませんもんね。」と云えばそれ迄だったかもしれません。ばってん反発してくれたおかげでですね。反発と云うか言葉じゃあ「そうです。」ち、いいよるごたる「そうです。」ち口では言いよるごたるばってんから「ああたが、悪かったい。」ち言いよるごたるふうで言うけん、ほんに自分ではっと思うてですね。ほんな事家内。けれどもそう云うふうにしてね。
時には、本当に自分がやっぱり良かち思うとやからこんことに、決めとります。私は人に物をやる時は。だからもう本当に汚い心と云うのがね。も、色々な時にです。例えばお金でも出さにゃん時に、それこそ出し惜しみをする。その出し惜しみをする心がね。神様の気感に適わんとですよ。う。今朝あたりからの御理解を頂いて居るともう、それこそもう、是れが自分の命と云うごと大事なもの。
まあ実は今日はお金でも物でも、それが無しには人間生きて行かれないと云う所から、言うとです。それは自分の命だとこう言われる。だからその命をお供えする程しの事だから、おかげ頂くはずだけれどもその命にですたい。ね。汚い物が付着しとったんでは、出けんでしょうが。本当に有り難いね心と云うか真心を添えての、私は離すと云う事に成らなければね。折角のおかげがばからしい事に成るですよね。
だからそう云う時に、自分の心の中に、ちらちらと覗いて来る所の、汚い心と云う様なね。本当にあさましい心と言った様ものは、自分で見つけにゃいかん。自分でそう云う場合にキャッチしなければいけない。そしてそれを私はね。改めても行こうまたは磨いても行こうと云う、気持ちに成らせて頂かなければ、ならんと云うふうに思うです。本当にこげな私も、お取り次ぎは始めてじゃった様にです。
美容師さんがそれこそ、自分がこう云う美容師を始めてから。初めてと云う様な、豪華絢爛なその衣装を付けさせてもらうんだけれど、かつらをかぶせても、化粧をして見るけれども、その人の顔がどうもとにかく、もう本当に見苦しいとこう言うんです。こりゃあ神様にでもお願いせにゃあと。折角ならば、本当にね美しいと、ご両親から言うてもらう様な、おかげを頂きたいと云うて。
今日お願いに見えた事から、私はヒントを得てですね。本当にそうだなあと、わら人形も衣装からと、言うばってん、問題はやっぱりかんじんかなめの、それを身に付けさせてもらう者がね。立派でなからなければ、それが晴れないと云う事ですよ。毎日こうして、有り難い、本当にまあ私は最近の、ご理解なんか思いますと。もうとても、本当に素晴らしい思うですね。
朝のご理解なんか頂いて居ると。だからそれを毎朝浴びる様に頂いとってもです。本気でなら自分の和賀心を求めての、信心姿勢と云うものを、作らなかったらですね。それはちょうど器量の悪い人に、舞子さんの衣装させて、後ろから見て居るだけなら良かばってん、前から見た時には、「えっ。」ちゅうごたる事じゃあいかんですからね。ね。おかげ頂いて行かにゃあいけません。
どうぞ。